探しものはなんですか? 無くしたものは何ですか?

わたしと母の格闘記

2011年、父の病気が発覚しました。

病名は悪性リンパ腫。

そして2013年3月9日、84歳で永眠。

そこからわたしと母との格闘がはじまりました。

「わたしとわたし」の格闘とも言えますが・・・。

ここでは6年にわたるわたしと母との格闘記を記していきます。

 

保険証と銀行通帳の再発行が完了し、私が預かってはいるものの、

母の「もの盗られ妄想」との闘いは、終わることなく

続いています。

 

連日、かかり続ける電話、スマホの留守電が、数日で100%になってしまい、

慌てて、削除する日々。

 

何度、「私が預かっている」と言って聞かせても、数分と記憶は続かず、

一人になると、銀行へ電話して「通帳が盗まれた」と訴えて、口座を止めて

しまいます。

 

マンションの管理人さんにも、「鍵を盗まれたから、取り替えたい」と訴えて

しまいます。

 

先日は、管理人さんと管理組合の方と話し合いを持ちました。

 

長く同じマンションで暮らしている(40年以上になります)ことも

あり、皆さんから心配してもらって、

 

「見守るしかできないけれど」

 

と言っていただきました。

 

とんでもない。

見守っていただけることがどれほどありがたいか。

本当に素晴らしい方々に恵まれて、母も私も感謝しかありません。

 

今朝もまた30分ほど、いつもと同じ会話を繰り返し、

怒りも苛立ちも通り越し、ただただ惻々とした心境で電車に乗り、一冊の本を読んでいました。

 

千夜千冊エディション『ことば漬け』

松岡正剛 角川文庫 

330夜 種田山頭火 『山頭火句集』で、山頭火のある一句を読んだ瞬間、

 

自分の考え違いに気づきました。

 

母は、保険証や銀行通帳やハンコや鍵や年金手帳や家の権利書を

無くしてしまったと言っているのではない。

 

何かとても大事なものを無くしてしまった、奪われてしまったような

気がするのだけれど、それが何なのか、どうしてもわからない。

 

何かはわからないけれど、とにかく大事なものだから、きっと保険証や銀行の通帳に違いない。

探してみると、確かにないではないか。

どこへいったんだろう。誰かに盗られたのでは?

そんな思考が、母の頭の中でエンドレスに繰り返されているのではないだろうか。

 

そう気づいたのです。

 

母が何度も何度も昔の話を繰り返して語るも、消えてしまいそうになる記憶を

懸命に手繰り寄せて、まだ覚えていることを確認しているのかもしれません。

 

いくら私が説得しようとしても、わからせようとしても、無意味なはずです。

 

「保険証」とか「預金通帳」とか、

そんなコンテンツのことではなかったのです。

 

母の言葉の背景に耳を傾ける必要がありました。

 

覚えておかなくてはならないこと、忘れたくないことが、

引き止めても引き止めても遠ざかっていってしまう。

それを見送るしかできないことが、どれほど不安で、どれほど絶望的か。

 

そして私は、母の不安や絶望を、どうすることもできないのです。

 

それでも、気づいてよかった。

 

何か足らないものがある落葉する   種田山頭火

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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